淡家朴『虚像』(2019)
書き手があるということは当然、書かれたものが存在していくということに結びついている。そして、書かれたものは常に、読み手の視線が注がれることを待っている。
私は書き手として、視線を設定するという一番大切な作業を怠っていたようだ。
つまり、何処へ向けて、書くか。
ということに関する勘案である。
私はもともと、Twitterに文章を投稿していた。
そして、140字では収まらないものを、このブログへ落としていった。
そして、その二つのメディアによる作文は、
「誰に見てもらうか。」
という視線の設定をしなかった。
Twitterでは、もしかしてバズるかもしれない。という、ある意味、釣りのような感覚で、私なりのライフハックを投稿していった。
ライフハックの類で伸びたツイートは、私がスポーツに関しての不平不満を書いたもの。これは「4リツイートの27いいね」となった。これは、私の中の最高記録。
恥ずかしながら、鳴かず飛ばずという感じ。
おかげさまで、Twitterで、私の狭隘な知見によるライフハックなんぞをバズらせようなどという驕慢は、もうあまり起こらなくなった。
もう一つ、Twitterでは、何となくキャンパスメイトと繋がっている感じ、を体感していた。
「SNS鬱」という言葉が流行ったように、要は、あの類の充実アピールというもの。そのワンランクもツーランクも下、ショボいことを、まんまと演ってしまっていた。
入籍をしたこと。
人知れず結婚式を挙げたこと。
割と楽しい結婚生活や旅行。
そして、子供が出来たこと。
そういう、人生の割と重要な場面(ある意味では未来の可能性を狭める)事柄について、その心身の高揚感を、えもいわれぬ充実感を、表現しようと躍起になった。
つまりは、自己顕示欲を、
肥え太らせていたに過ぎない。
忸怩たる思いなど、そこには無く。
言外には、相対的幸福感を掲げた。
愚か。
多分に、人の目を想像しては、人を食ったようなことを言ったりもした。私は私の虚栄心を瀰漫した。思い上がりはまさに、猖獗を極めた。
他方、ブログでは、その存在を知己や係累に知らせ、まぁこういう風に色々なことを思っているのだ、私は考えているのだ、と威張った。
威張って、虚しくなった。
誰も、私の本当のことを見ていない。
もちろん、私の力量不足で、伝わらないのだ。
それとなくキャンパスメイトを幻滅させ、
それとなく係累を罵る私がいる。
私は、私の心が、汚れていくような感覚を覚えた。
いよいよ先日、Twitterで繋がっていたキャンパスメイトが、Twitterをあまり利用しなくなったことに、勝手に苛立っている私が居ることに気がついた。
ハッと胸を突かれる思いがした。
なんか、私、騙されていないか?
或いは、自分で自分のことを騙していない?
私は、友人の虚像でも追いかけてしまっていたのだろう。過去の友人たちをTwitterに探しても、そんな人はもう、何処にも居ない。
もう、そこに居るのは、社会人として一人前になった、世間の大人だ。当たり障りの無い言葉を、ポロポロと偶さか零すだけの、監視機構に成り果てた友人の虚像のような残り香だけがある。
私の心の何処かで、キャンパスメイトたちは私のこと、つまりは、Twitterで垂れ流している私の思考、能書きを見てくれているだろうと思っていた。そして、見るだけではなくて、そこに何らかの意見を、リプライしてくれるのでは無いかと、ずっと待っていた。
一年間待っていた。
しかし、そこには、もう、かつてのように私を取り囲む知己たちの姿は無い。リプライは飛んで来ない、或いは、極めて稀に。
このリズム感、グルーヴ感では、まるで私がバカみたいだ。
そういう訳で、私はリア垢を降りた。
つまりは、リアルでも繋がりのある知己たちを、こちらから勝手にリムーブした。
そして、鍵を掛けた。
暫くは彼らのスマホの画面の中から消えようと思った。
つまり、エレクトリックな関係をやめる。
顔を知っている人々と、エレクトリックに繋がっていることは、どこか不気味だから。
Twitterで、キャンパスメイトと決別する決心が出来たのは、Twitterだけの周縁者がいくつも現れてくれたという事態も手伝っている。
私は、Twitterはやめない。
むしろ、これからも積極的に、読書家、作家、哲学者、詩人といった言語活動を生活の中心に据えた深い(或いは複雑で、時々面倒くさいまでに思慮深い)マインドのある人々と繋がっていきたいと思っている。(そして、実際、もう既に何人かと、かけがえのない出会いをしている)
このブログには、視線を設定している。
実際に、私のこと、私の肉体を知っている人々、知己、係累といった人々の視線を。
そして、Twitterは、私の第二の信用社会。リアルとは別の、パラ知己の視線。
そして、もう一つ。新たな試みとして、文投稿サイト「scraiv」の利用を始めた。
こちらの視線は、実際に文を書くことを仕事をしているような人々。或いは、趣味の域を越えた執筆実力者たち。作家。文筆家。
私に実力は無い。しかし、これからこの場所で文を綴ることは、自分を慰める為にではない。行為依存としてでもない。私が今、私として認識している、この創作意欲のサイズ感、反応閾値を、もう少しだけ拡げてみたい。
ありがとうございました。
お世話になりました。
ご迷惑もおかけしました。
幻滅させました。
もう少し、私だけの力で、やってみます。