承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『死後の世界』(2019)

 

 

死後の世界はあるのか。

 

私は、無いと思う。

 

 

理由は、簡単。

 

数ある臨死体験の、どれを読んでも、

人間の宗教の世界観の域を出ないからだ。

 

 

臨死体験として、世界的な注目を浴びたのは、アメリカの脳外科医、エレンアベグサンダーのものだろう。彼は、脳外科医として、死後の世界を認めた人類最初の権威といえる。

彼自身の臨死体験の特徴は、意識を超越しているというところにあった。

 

意識を司る大脳皮質が炎症を起こし、機能して居ない状態。つまり、意識を作り出すことが出来ず、夢を見ることすら出来ない状態。

 

そのような脳の状態にあって、彼は別世界を旅して居たという。そして、それを死後の世界だと名付けて、実しやかに語ったのだ。それも、実績のある脳外科医が、である。

 

 

しかし、やはり、眉唾である。

 

 

その世界観は、古代神話とも、ユダヤ教的とも、ダンテ的ともいえる。神や、天使といった言葉が、彼の著作には並ぶ。

 

これでは、宗教。

あるいは、生前の信仰に基づいている。

 

 

もし、本当に死後の世界があるのならば、そういった宗教的な世界観を超越しなければ不具合があるだろう。

 

生前に信仰していた宗教や、生前の暮らしがあった文化圏の延長線上に死後の世界があるというのならば、その人が、死後の世界で、別の宗教や異なる文化圏の人々と、なんらかのコンタクトを取ることは可能なのだろうか?

とか、様々な不具合が容易に想像できる。

 

私たちは「魂」とかいって、目に見えないものを簡単に表現するが、「魂」という考え方も、一つの思想である。

 

 

この、思想や宗教、観念や思惟の大洪水は、死後の世界で、どのように整えられていくのだろうか。

 

 

そして、死後の世界が本当にあるのならば、そういった、思想や宗教の概念を超越した何らかの共通したイメージが、人類全体の共通した認識として、長い時間をかけ堆積しているはずである。

 

 

しかし、長い時間をかけて堆積しているものは、歴史である。そして、人類の歴史とは、物語であり。物語とは、まさに宗教である。

 

 

色々考えると、全人類を包み込み得るという壮大なテクスチャーとしての死後の世界の存在は、難しいだろうなと思わざるを得ない。

 

 

では、一人一人にそれぞれの死後の世界があるという考え方。

 

それでは、妄想とあまり変わらない。

 

 

 

 

以上のようにして、死後の世界への幻想など、死の苦しみを和らげるための、ほんの気休めに過ぎないと分かって、嫌に虚しくなる。