承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴 『情緒と言葉』(2018)

情緒と言葉に就いて、私が知る事を書きます。私は夢想家だと云う謙遜の様な自負の様な言葉を私は時々思う。此れ等は私の経験上どうも確からしいと云う分析に基就いて居る。若し乎すると其れは夢想では無いのかも知れ無い。私の頭の中には、私の思惟に飼育される何人もの男女が暮らして居て、私は経験に随って、其の人達と会話をし乍ら想像をします。此の人ならばどう言う乎、彼の人ならばどう言う乎、想像に想像を重ねて、言葉で思惟の小径を力弱く照らし乍ら、将に夢中で、其の小径を独り歩いて行きました。

小径には、腐葉土が堆積して居て、其処には蚯蚓が棲んで居ます。蚯蚓が言葉を食べては、意味の無い素を孔から吐き出して、腐葉土に栄養を与えます。私は情緒の足で以て其の土を踏み締め、森の奥へ奥へと小径を辿って行きました。

左の様にして結局、私は想像上の快楽へ私は逃げる。私は左う云う生も無い性を持って居る。私は偶さか、油が切れた様に成る事が有る。無気力に成る。何もしたく無い。兎に角、無で居たい。無に成りたい。私を消去したい。手汗を掻き、震え、能面の様に成って仕舞って、周りの人に困惑と苛立ちを与えて仕舞うのです。而して、困った事ですが理由が無いのです。何故、此んな気分に成って仕舞ったの乎という事だけが、一向に判然と成ら無いのです。故に、私は常に私を想像上の快楽へ往なして遣る必要が有ると思いました。私を救って呉れるのは、本当に申し訳ないのですが、周りの理解者の人では無く、私自身の述懐に拠って耳なのです。御免為さい。御免為さい。妻にも朋にも親にも同胞にも、私は申し訳が有りません。其れ程に魂を弱らせて仕舞った馬鹿なのです。

魂を弱らせたからこそ分かる事、其れは情緒が言葉を選んで居ると云う事、其れから情緒が思惟を掴んで居る為に、一度に其れ等は破滅に向かう事が有ったとしても可笑しく無いと云う事。私は一秒先の私を作り上げて行きます。他でも無い私の情緒と言葉を守る為に。