承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『蔑めば、恋』(2019)

 

私はバカが嫌いである。

 

バカとは、知性の欠如である。

 

そして、知性の欠如が齎すものは「争い」である。

 

 

私の理性の位置は、大体この辺りにある。

 

対人間におこる争いとは、理解の枠組みを外れた発言や行動、とりわけ「理解不能」という事態の直接的処理の算段である。

 

人は理解不能の現象に直面すると、一度混乱する。それから「恐怖、怒り、笑い」のいずれかの感情を採用し、解釈を与える。

 

この構造を解し、例えば「怒り」を知性でコントロールする方法は「アンガーマネジメント」と呼ばれる。

 

 

しかし、理屈で分かっていても憎悪を発表してしまうのが人間、とりわけ男女間の性です。

例えば、臨床心理士精神科医の夫婦が破局したり、心理分析学者と精神科の看護師の夫婦が別居していたりとか、心の専門家同士のカップルだって、心がすれ違わないということはない。

 

物事に絶対はありません。

 

女性の癇癪は、偉大なる哲人ソクラテスを生んだのですから。

 

 

しかし、低レベルのものもあります。

 

例えば、女性の癇癪のうち、最も具体的解決に結びつかない愚行の一つに「口をきかない」という憎悪の発表があります。

 

「あなたには言っても分からない」という視座を決めつけて、論件の余地を無下にするという異常行為です。

 

これは女性の発育障害といってもいいかもしれません。

 

 

理解できなければ、対話を求めるべきです。

 

 

分かっているのに、憎悪を抑えきれないというのならば、それは知性の欠如でしょう。

淡家朴『パンティレイドマン』(2019)

 

 

下着泥棒の分からないところは、彼(彼女)らが洗濯された下着を狙うところである。

 

つまり、下着の持ち主が着けた何らかの内容物や痕跡を欲望する訳ではないのだ。

 

 

ここで、犯行に二つの分岐パターンが生じる。

 

泥棒した下着をコレクションするタイプ。

また、

泥棒した下着を穿くか被るかした後に、元に戻すタイプ。

 

前者と後者で、見事な主体の交換が起こっていることが分かる。

 

洗った下着から、何らかの性的な感動を得る為には、極めて間接的な観念の世界を経由しなければならない。「穿いて居た」という事実は目には見えないからだ。

したがって、彼らはその研ぎ澄まされた下着への情熱によって、形而上学的な仕方で、自らの玉の緒によってパンティを突き上げているということが分かる。

 

これは、言うなれば芸術的栄養の受益の構えであり、「受け身型」である。

 

 

次に、後者の場合は全く反対の駆動因子が認められる。

 

彼らは往々にして自らの体液及び内容物を下着に付着させた上で、下着を返還する。

 

この仕事は、極めて主体的である。

 

それを知らず知らずのうちに、下着の持ち主が穿くことを期待している。縁の下の力持ちならぬ縁の下の変態である。

 

そういう裏方に回って、体液や内容物を与える側に回る。ある意味で、プロデュースする立場をとる、「能動的な」モデルである。

 

 

以上のように、犯行のタイプによって、受動か能動かという分化ができた。では、次に、「穿いたパンツを強奪する」ということについて考えを展開する。

 

果たして、穿いたパンツを強奪することは可能か、ということ。そして、それは下着泥棒という犯罪の範疇に収まっているのかということ。

 

 

穿いたパンツを強奪する下着泥棒が居るならば、それは恐ろしいことである。彼(彼女)らは背後から忍び寄り、力づくで今、私が穿いて居るパンツを剥ぎ取っていくのだ。

 

これはもうレイプではないか。

 

パンツが欲しいだけという下着泥棒の願望は、侵されてしまうという恐怖から迫害を受けること必定である。

 

何故ならば、下着を無理やり剥ぎ取るという行為は、暴力であるからである。

 

こうした論証を跨いで、下着泥棒の妙味を照らした。僅かながら、その理解の及ぶ遠くへと渉猟し、逼塞した性犯罪への美意識を敷衍することで、私も得られるとした、いくつかの実解。

 

 

あゝ、木こりはどう答えるだろうか、

 

あなたの落としたパンティーは、この脱ぎたてのパンティーですか?

それとも、この洗濯されたパンティーですか?

 

 

 

淡家朴『趣味は座ること』(2019)

 

 

私は読書をしますが、ほぼ全ての内容を忘れてしまうので、内容を取っているのではなくて、網膜に文字を見せているだけという感じです。

 

もっといえば、座ってるだけ。

 

私は多分、読書が好きなのではなくて、座るのが好きなのかもしれません。

 

そういうわけで、脳を通過していないですから、読んだものを思い出そうとしても、刹那に浮かぶようなものではないんです。しかし自分の頭の悪さを嘆いて置いては、その先が保ちませんで、Twitterはてなブログに対面して文を作ったりして、私なりに何とかこんとか勉強しておるのです。

 

 

人間の身体の動きを三つに分けると、立つか座るか横になるかのいずれかであります。ですから、そのうちのどれかを選んで、そうしていれば良いのです。そして、その動きに色々とオプションを付けていく、応用をしていくということです。

 

別に生きなくてもいいところを、まぁ死んでは周りの顰蹙を買うので、生きているというくらいのことです。

 

長い暇潰しに、せめて書物を、やれ捲ろうかと。それくらいです。

 

 

新年度が始まります。

本当に面倒くさいです。

死んでしまおうかと思うくらい面倒くさいです。

 

躁鬱病のきらいがありますから、春先から夏の終わりまでは、セロトニンの分泌が弱くて、本当にかないません。

 

まぁ、秋まで持てば、自分の子供の顔が見られるかもしれないので、やりますが。

淡家朴『何故、ちんちんを隠すのか』(2019)

 

 

まず私たちは、何としてでも世界があることを決めつけなければ、存在ができません。

 

でも、そういうのって、もういいかげん飽きてしまいます。飽きるというのは、現代のキーワードで、それは私が資本主義社会の中で、記号消費しまくっていることの何よりの証拠です。

 

消費することで、飽きを解消し、安心を得るという社会のモデルが、私たちに、ピストン運動のような消費行動を何度も何度も何度も繰り返させます。

 

 

宛ら、持ちたくもない欲望を無理やり持たされて、世界と交尾させられ続けている。

 

 

それは注意深く見ると、極めてはしたのあることで、隠さない生殖器のようなイノセントな居たたまれなさがあります。だからそれを、信仰などによって隠そうとする。

 

隠しても、また出てくるから、また隠す。

 

「隠す」という行為が、人間存在にとって大きな要なのです。だって、ちんちんを出してはいけないもん。

 

 

日本には「恥」の文化がありますから、こういう論件を、それで跨いで越えていってしまう。

でもね、きっとそれだけではないと思うんです。

 

人前で、ちんちんを隠すのは、

 

ちんちんを出す必要がないから。

ちんちんを出すのが恥ずかしいから。

ちんちんを出すと犯罪になるから。

ちんちんを出すと不快に思われるから。

ちんちんを出すと嫌われるから。

ちんちんを出すと怒られるから。

ちんちんを出すとこわがられるから。

 

 

色々あります。

では、その理由の順位は何でしょうか?

 

ちんちんを出す必要がない。

ちんちんを出すと失職するリスクが上がる。

ちんちんを出すと他者に何らかのネガティブな印象を与える。

 

 

三番目の理由が、ほとんどでしょう。

ちんちんを出すことで、他者のイメージを錯乱させる効果が期待できる。

かつて、元SMAPの草彅剛さんが、公園でちんちんを出したのは、こういう理由が手伝っています。

 

 

ちんちんを出して、アイデンティティを一度シャッフルする。

 

ちんちんリセットです。

 

誠実とか真面目とか、そういう他者の期待をことごとく通過して、過剰適応してきたこれまでを覆す為の装置が、「ちんちんを出す」という行為に凝縮されたのです。

 

 

さて、

では、必要性の問題では、どうでしょうか。ちんちんを出す必要とは、何でしょうか。

 

こと排泄と生殖に関して、私たちは総合的に判断して、「今は、ちんちんを出すべきではない」と了解しているということでしょうか。

 

しかし私たちは、「今ちんちんを出す必要は無いから」という意識を常に持っているわけではない。意識にも上らないところで、つまりは無意識のうちに「ちんちんを隠す」という行動を決定している。

 

これは、ほんとうは驚くべき論件だと思います。無意識にちんちんを隠すことができる「知性」は、何としてでも身につけておくべきでしょう。

 

ちんちんを隠していることで、無意識に振舞っている諸々のことで、私たちは世界に「ある」のです。ちんちんを隠す必要があったから、ちんちんを隠して来たという、ちんちんのパラダイム追体験することで、ちんちんを出さない。

 

本当は、ちんちんを出したい場面でも、ちんちんを出さないのですから、見上げたものですよ。しかし、本当は、ちんちんを隠す動機や理由は、極めてその根拠に乏しいのです。

 

ちんちんを出すのではなくて、ちんちんを解釈する世界に、ちんちんを取り入れる。つまり内世界的にちんちんを入れるのだと、キルケゴールならば言うのです。

ちんちんがあるのは、ちんちんの観察者という固定的な視座があるからだと、量子力学者なら語るのです。

 

 

ちんちんあれ、するとちんちんがあった。

 

 

エスキリストならば、そう言うかもしれない。

 

失敬。

淡家朴『バースデイ・レジスタンス』(2019)

 

 

「人は、未来の前の為に過去を思い出す」というジャックラカンの言葉があります。

 

私たちは、誰一人として過去を持つことはできません。しかし、過去を思い出すことはできます。そして、「私とは、このような人間である」ということを他者に伝える為に、都合よく過去を思い出して語るのです。

 

したがって、過去とは前未来的な何かなのだと。

 

 

また、哲学者マクタガートが発表した

『時間の非実在性』(1908)という論文に、

 

「私たちの言う時間が間接的に矛盾しているかあるいは説明するのに不足しているので時間は存在しない」

 

という主張がある。

 

 

ある一点の過去にとってはそれよりも過去のことは過去であるが、その過去からの過去にとって、ある一点の過去は、未来である。

 

したがって、時間という概念には、清算不可能な致命的矛盾があるという論件である。

 

 

完全にうまく理解することに成功したわけではないが、それはそうだなと思う。

 

 

私の実際の心を運転として、過去の自分を思い出すということは極力控えることにしようと思う。

 

25年前の今日に私は生まれて、その生まれた私の25年後の未来に、私が生きていて、そこに時間は流れているわけではない。

 

 

時間など、概念に過ぎない。

そしてその概念には、多くの欠陥がある。

 

 

実体とは何か、

現象とは何か、

 

 

私のインタレストの発動は、私にスピノザハイデガーの訳本を読ませるのだ。

 

 

 

あまりみんなが使っている概念に拘らなくても良いかなと。通念を棄てて生きていこう。

 

25歳、だからどうした?

 

年齢も、名前も、性別も、感情でさえも、

今の私には要らないものに見える。

 

そんな永訣の朝が、あってもいい。

淡家朴『人は、しない』(2019)

 

人は、決めたことをしないなと思う。

 

私も、他にしようと決めていたことはあるのだけれど、それを無視して、面倒臭がって、こうしてサイトに文を捻っている。

 

 

面倒であればやらなくてもいい。

 

そう私を許す大胆さが私の中に生まれた。

 

それは気分障害や不眠、パニックや希死念慮に苛まれて苦しんだという経験が涵養したリスクヘッジの感性なのだというふうに理解している。

 

 

私にしか分からない、人生への手加減。

 

 

具象的には、あまり他人に会わなくしたり。意図して他人とのコミュニケーションを控えたり。私にはそういうネグレクトが、一番しっくりと来たのだと思う。

 

 

人生は、ネグレクトの連続だ。

 

 

他人と違うとか、分かってもらえないとか。

そういう言い方は、もうよそうかなと思っている。というのも、別にそういう料簡を幼稚だと思ったりしているのではなくて、シンプルなマインドセットの採用をしたというだけ。

 

 

「やるべきこと」と「やりたいこと」以外の行動因子で動いてみよう。そんな覚悟。

淡家朴『高校球児と性欲の分散』(2019)

 

受信料を取るNHKが、高校野球を放送する。

立派に営利的ではないかと、育ち過ぎた高校球児の尻を睨みつける。

 

時速151キロの豪速球を投げる高校生がいるという。

 

まだ未成熟な肉体を、無理に改造するという。

もはや自傷行為に近いな、とも思う。だって、そうでしょう。そんなことをしたら、肩が壊れてしまいます。それは、身体酷使以外の何ものでもない。末、恐ろしい。

 

スポーツは、精神分析学的には、性欲の昇華といわれます。そして、青少年の性的衝動は、ほぼ破壊的といっても良いほど、純粋高圧的でありますから、彼らが肉体を無理やり鍛え上げることには、ある意味では健康的な理由があるようです。

 

実際、アスリートにはタイガーウッズのような異常性欲者も居ますし、オリンピックに選抜された男たちが、娼婦を買ったことで世間の顰蹙まで買ってしまったのは記憶に新しい。

 

 本来性欲は、生殖のためにあるものですから。

 

そういう意味で、性欲を正しく履き違えた人々の、運動の異常値を愉しむというのが、スポーツ観戦の妙味の一つかもしれません。

 

「競争」というイデオロギーと結びついて、世のお父さんたちのテンションを操作する駆動因子としてスポーツがある。そういう解釈を採用しても良いのですが、きっとそれだけではない。

 

スポーツ精神を神聖視し、そこに対立する精神を矮小化して精算し、根源的な問い、哲学的な問い(なぜ、身体を鍛えるのか。なぜ、その種目なのかという懐疑)に対しては、直向きに無視の努力を貫く、プロのアスリート。