承認欲求の骨

総合的な言語感覚を磨く練習です。

淡家朴『人は、しない』(2019)

 

人は、決めたことをしないなと思う。

 

私も、他にしようと決めていたことはあるのだけれど、それを無視して、面倒臭がって、こうしてサイトに文を捻っている。

 

 

面倒であればやらなくてもいい。

 

そう私を許す大胆さが私の中に生まれた。

 

それは気分障害や不眠、パニックや希死念慮に苛まれて苦しんだという経験が涵養したリスクヘッジの感性なのだというふうに理解している。

 

 

私にしか分からない、人生への手加減。

 

 

具象的には、あまり他人に会わなくしたり。意図して他人とのコミュニケーションを控えたり。私にはそういうネグレクトが、一番しっくりと来たのだと思う。

 

 

人生は、ネグレクトの連続だ。

 

 

他人と違うとか、分かってもらえないとか。

そういう言い方は、もうよそうかなと思っている。というのも、別にそういう料簡を幼稚だと思ったりしているのではなくて、シンプルなマインドセットの採用をしたというだけ。

 

 

「やるべきこと」と「やりたいこと」以外の行動因子で動いてみよう。そんな覚悟。

淡家朴『高校球児と性欲の分散』(2019)

 

受信料を取るNHKが、高校野球を放送する。

立派に営利的ではないかと、育ち過ぎた高校球児の尻を睨みつける。

 

時速151キロの豪速球を投げる高校生がいるという。

 

まだ未成熟な肉体を、無理に改造するという。

もはや自傷行為に近いな、とも思う。だって、そうでしょう。そんなことをしたら、肩が壊れてしまいます。それは、身体酷使以外の何ものでもない。末、恐ろしい。

 

スポーツは、精神分析学的には、性欲の昇華といわれます。そして、青少年の性的衝動は、ほぼ破壊的といっても良いほど、純粋高圧的でありますから、彼らが肉体を無理やり鍛え上げることには、ある意味では健康的な理由があるようです。

 

実際、アスリートにはタイガーウッズのような異常性欲者も居ますし、オリンピックに選抜された男たちが、娼婦を買ったことで世間の顰蹙まで買ってしまったのは記憶に新しい。

 

 本来性欲は、生殖のためにあるものですから。

 

そういう意味で、性欲を正しく履き違えた人々の、運動の異常値を愉しむというのが、スポーツ観戦の妙味の一つかもしれません。

 

「競争」というイデオロギーと結びついて、世のお父さんたちのテンションを操作する駆動因子としてスポーツがある。そういう解釈を採用しても良いのですが、きっとそれだけではない。

 

スポーツ精神を神聖視し、そこに対立する精神を矮小化して精算し、根源的な問い、哲学的な問い(なぜ、身体を鍛えるのか。なぜ、その種目なのかという懐疑)に対しては、直向きに無視の努力を貫く、プロのアスリート。

 

 

淡家朴『見つからぬ相談』(2019)

 

 

今、一つの小さな島国が滅びようとしている。

そういえば公園の桜が、咲いていた。

 

 

生きる意味が見つからないという常套句を漏らし続けるメランコリー患者のように。或いは、働く意味が見つからないという常套句を吐き散らかす万年転職志望者のように。

 

そして、そういった全ての弱音を、何一つ汲めない、知らないという顔をして、素通りしていく世間の人という目の群れのように。

 

心療内科の医師や、転職支援サービスのコンシェルジュの視座からでは、ちょうどその目線の翳になって見えないところにある相談。極めて抽象的で、言葉を与えられないようなこと。頭の中で、浮かんでは消え、浮かんでは消えていく、短編のアイデアのようなこと。

 

抽象的なものを、抽象的なままで表現をすると、滑稽なほど簡素なものになる。例えば、何処かで聴いたことのあるJ-POPのワンフレーズのような。そんな既視感や、もう飽きたという感覚を、読み手に印象として保存してしまうものなど。

 

何度も書いて、何度も消して。

或いは、考えたままで、空白の時間を過ごす。

 

 

淡家朴『道祖神』(2019)

 

路傍の生体に執着するのが秘かの愉しみである。瀝青の間隙に沸沸と空いた蟻の巣穴などは、尚、素晴らしい。幽けき存在への憧憬は、私を路傍の生体の観察へと誘う。

 

暗渠の廃墟などの生体も良いのかも知れないと想像されるが、私の小心によるお化けへの恐怖が勝つ為に好まない。兎角、路傍がよろしい。

 

妙な頭痛を持つと、妙な趣味を持つものである。しかし、何も、気違いの自覚のない時分から、私はこの路傍趣味は確かあったような気もする。路傍の磁場に引き寄せられるようにして、瀝青の間隙から噴出した草臥れて乾いた植物を見たりして、落ち着くのだ。

 

何でもない質量に、何かあると夢む。

これが私の、作文芸術への一つ覚悟でもある。

 

最近では、このブログには随想のみを投稿しようと決め、小説作文はscraivにしている。先般、scraivに投稿した小品を見返して、随想に寄った為、今一度こちら側に、作家、淡家朴とする文体を意識して、これを書いている。意味は弱い。

 

路傍への憧憬の動機について敷衍すると、こう数百字足らずで種切れとなるのもご愛嬌。私は、遠回りをせずに主張をする性癖の為に、字数が保たない。最も文章力が拙いだけか。

 

路傍には、誰も見向きもしないものという磁場がある。そしてその磁場が私の内心と哀しいリンクを生じる。というのも、私はこれでも、ひと月に10曲ほどは、YouTubeのサイトへ自作の歌を投稿している。しかしながら一行判然と、聴き手が付かない。偶さか1500人(人?)のフォロワーを得たTwitterにて、宣伝演繹及びツイキャスシステムを利用したライブ活動を半ば精力的に行ってはいるが、才能の瑕疵というものは、残酷なエコノミーに晒されるのが世の常で、この通り、底辺も底辺のユーチューバー、まさに路傍の枯れ草を勤務している。

 

 

触らぬ神に祟りなし。

 

ウェブの道すがら、あちらこちらに立つ道祖神の、見向きもされぬ伽藍堂のごとき立ち様の隣に、また並んで、私も。

 

しかし、この触られぬ皮膚感覚に一興あったりするのです、なぞと世迷言を吹かして。

 

あゝ、まだ桜は咲かぬか。

淡家朴『社会』(2019)

 

 

職場の暗い翳になる鬼が居ます。

 

顔を顰めて、世間にぐれています。

 

弱いものいじめが大好きな彼女らは、「お局」と呼ばれたりしている人です。

 

何らかの不遇因を持って、心のうちで世間を呪っている。とりわけ、可能性のありそうな若者に対し、それらを再起不能にする為に凄まじい暴力(精神的抑止力)を発明、研究している陰険な人々です。

 

不妊治療に失敗した女。

今日も子供が学校に行かなかった女。

ボケたバアさんの介護をしている女。

夫がうつ病になった女。

とにかく家庭が冷え切っている女。

 

 

彼女らは、その職場にしか通用しないような狭隘な経験をデカデカと掲げて、新人潰しに勤しむことで、鬱憤を晴らすようにしか生きる希望が無いのです。

 

彼女の心の声に、少しだけ耳を傾けてみましょう。きっと荒んでいること必定。

 

なんで、私の子供だけ!

なんで、私の夫だけ!

 

 

なんで、私だけ!

 

私だけが不幸なのよ!

 

 

こんな小娘のことなんて知ったことか。

ズタボロになってしまえばいいのに。

 

だって、だって、私だけ…!

 

こんなのって、あんまりじゃない…。

 

 

 

恵まれたら最後、彼女らの大いなる呪いの対象となってしまいます。

 

 

淡家朴『楽して稼ぎたい』(2019)

 

 

仕事が厭になったら、もうあまり積極的に仕事をしなくなるのが、人の常だと思います。

 

それは、すごく自然なことだと思います。

 

世の中に楽な仕事など無いと、胸を張ってエッヘンと出来る人というのは、たとえ仕事が厭になっても、それに耐えたり、また別の方法で解決する思考の技術があるのだと思います。

そして、それ以上に、何よりも本人が努力家であることに相違ないでしょう。本人が、強い意志と負けん気で頑張っている。その直向きな努力の成果なのだと思います。

 

僕はその才能を素晴らしいと思いますし、何も否定の余地はありません。

 

 

しかし、私はそうはしません。

 

 

ええ、私は、そうは努力しません。

それだけは言えます。

 

そうは努力はしない。

何故かは知らないが、そうしない。

 

ただ、それだけ。

 

 

私は今の仕事を一度、完全に厭になって、やめようと思った時に、では、ほかに何の仕事に有り付ける可能性があって、それぞれにどういうリスクがあって、どういう魅力があって、それを通して、どういう精神生活を軸に据えることが出来るようになるのか、ということが知りたくなりました。

 

 

可能性は有限です。

 

 

小学生の頃は、大人たちに、君たちは無限の可能性があるだなんて、世迷言めいた言葉を浴びせられ、そしてそれが本当のように思えて嬉しかったですが、今となっては、本当に世迷言。

 

選択肢は、容赦無く減っていきます。

 

転職するにせよ、今の仕事で得た「キャリア」という社会的な評価に従って、似たような業種閾値内を彷徨する他、術はありません。

 

それでは、根本的な解決にはならない。角度を少しずらして、気を紛らせているに過ぎないようなこと。

 

より楽に、より自由になりたい。

 

というような、社会的には認められ難い「幼稚な」動機をぶら下げて、馬鹿正直に転職しようものならば、世間からは門前払いを食らうこと必定。

 

今の仕事が、厭になれば、即終了。

 

一度アウトしたら、没落の一途。というような社会の仕組みと、それに伴う精神の仕組みがあるようです。とりわけ、コミュニケーションを軸とするような社会性の求められる職種において、対人ストレスや、対人のトラウマは「クセ」になってしまうので、極めて絶望的です。そして、その画一的な思考回路と、その思考回路の形成に加担している画一的な社会(資本主義社会、民主主義社会)での、絶望の解決は、ただ一つ、「自殺」しかないのでしょう。

 

これは、何も狂った発想ではありません。

 

現代日本の自殺率の高いのは、偶然ではありません。

 

「厭になる」という現象の中身について、対話することの出来ない社会があるということは、全ての現代人にとっては絶望的な事実です。

 

 

現代人はみな、肩に死神を連れているのです。

淡家朴『禁酒』(2019)

 

 

自閉スペクトラム症や、ADHDといった発達障害の夫を持ってしまった妻が、夫の理解に苦しみ、カサンドラ症候群パニック障害を起こしてしまったといった夫婦問題のモデルが、精神医療と、家庭裁判所を中心にして流行したのは、今や欧米だけの話ではない。

 

 

ワンライフ、ワンラブ

 

 

といった、脳天気なラッパーのライムように結婚生活がうまく成り立ち続けるということは難しい。

 

夫婦関係に限らず、長期的な人間関係を形成、維持する為に、どちらかが、より多くの事情や駆動因を理解、把握して、勘案していることの方が、そうではない場合よりも多い。

 

 

私は、バカが嫌いだ。

 

しかし、私自身がバカではないとは限らない。

 

つまり、何かについて私が「バカ」だと論じているのは、対象を分化しているに過ぎない。そしてその分化とは、私の個人的な解釈に過ぎない。

 

そして私がバカだといって卑下している理由や動機が、私と他者との相対的関係において、つまり外部の世界が私にそうあるべきだと強いている、何らかの信号や記号を鵜呑みにしたもの、それ自体による解釈かもしれない。

 

私を私と成している意識は全て、私と社会との関係の上に成立しているからだ。

 

 

私は、いま、偶さか婚姻関係にある異性と暮らしている。そしてその人に「妻」という衣装を着せないようにしている。

 

「妻だから、こうあるべき」

「妻として、当然のふるまい」

 

そういう世間の、正常なる判断という狂気からの解放について、様々な思考実験と実践を繰り返している。

 

 

家庭なんて顧みないで良い。

子供だって、勝手に育っていくだろう。

好きな時に好きなだけ、好きなことをすればいい。

私以外に好きな人が出来たらば、

私を置き去って恋愛していただいても結構(ただし、隠れて内緒にしていて欲しいが)

 

 

さて、

話は変わって、

「禁酒」である。

 

私は、お酒を飲むと、「語りが多く」なる。

 

よく言えば「お饒舌」

ふつうに言えば、「キチガイじみてくる」

 

普段から、胸に秘めたイチモツは、「まぁ別に、わざわざ口に出すまでのことでもない」という理由によってのみ胸にとどまっている。

 

つまり、酒の酔いで、この「らち」を開けてしまうと、暴れ馬が一斉に走り出してしまうのだ。

 

それは観念奔逸に近い。

きっと、ウザい。

 

 

とりわけ、人間存在におけるフレーム問題を、ギリシャ、インド、中国、それぞれの中枢思想から脈々と続く、解決不可能な基本命題を、勝手な解釈と浅薄な知識で語り始めて、キリを知らない。

 

「死」とか「存在」とか「幻想」とか、

 

そういう極めて抽象的なものへの思弁が始まってしまうと、もう手がつけられなくなる。

 

 

はい、お開き。

 

である。

 

 

文脈の著しい飛躍を平気でして、誇大妄想の敷衍を延々として、脳髄を払底して徹底的に極論を述べ続ける酔っ払いと化してしまうのです。

 

バカと天才は紙一重である以前に、天才とは、自分に自信が無いが為に作り上げた、自己の虚像であって、言わずもがな…。

 

 

大概にしておかないと、

 

お愛想。

 

となるかもしれません。

 

 

ですから、私も、酒はほどほどにしないと。

 

しかし、安くて済む快楽としては、最も手軽で、簡単に済むのが、酒。

 

 

いつも、お付き合い、ありがとうございます。

 

実は今日で、入籍1周年。